ひらり、ゆらり、粉雪が舞って、私とあなたに優しく降りそそぐ。
足場の悪い山道のなか、私はバジルに手を引かれて、一歩一歩踏みしめるように歩いていく。

嘘みたいに静かで、嘘みたいみたいに美しい時間だった。さっきまでの荒れ果てた町とはまったく違う、どこか別の星にでもきているようで、でも実際はただ山奥に進んだというだけなのだから、変な話である。山を下りれば戦場、山を登れば夢の国。どうしてこんなおかしな世界に、なってしまったのだろう。


「ここまで来ればもう大丈夫ですよ。」


大きな桜の木の下で、バジルの足が止まる。見たこともないくらい大きなその木は、雪が積もり白く染まってとても綺麗だった。きっと春が訪れ花が咲き、薄いピンクに染まった時はもっともっと綺麗なんだろう。「とっても素敵な場所でしょう。」じっと木を見つめる私に、バジルは微笑みかける。私はこくりと頷いて、視線を彼に移す。


「拙者は世界がこんな風であればいいと思うのです。
世界中の人々で輪になり桜の木を見上げ、美しいと笑い合う、そんな、やさしい世界」


その為に戦うのだと、こんな争いは終わらせなければならないのだと、バジルは言った。桜を見上げるターコイズブルーの瞳の奥には、強く熱い想いが宿っていた。行ってほしくなかった、一秒でも離れていたくなかった、単純に隣にいてほしかった。でもきっと、私なんかに彼は止められない。微笑んで、見送って、ただ無事を祈ることしか出来ないのだ。その青は私にそう告げていた。それがとても寂しく、苦しく、切なかった。


「…そろそろ、拙者は行かないと。」


バジルがそっと呟く。ビクン、と心臓が大きく跳ねるのがわかる。

そうして私のほうを向いたバジルはとても真剣なかおをしていた。左手でそっと私の頬を包み込む。その手はひんやりと冷たく、傷だらけで乾燥していたけれど、どこか気持ちを安心させてくれるやさしい手だった。じっと、目が合う。ドキ、ドキ、ドキ。胸の高鳴りが時を刻む。実際はきっと数秒だろうけれど、私の胸の時計で数えるなら軽く一時間は経っていただろう。それぐらい長い間、彼の瞳に捕われていた。それから彼はふっと笑みをこぼして、その右手を頬から放し、私の髪を優しく撫でる。びっくりした。キス、されるかと思った。


「…やっぱりやめておきます」
「バジ、ル、」
「今おぬしの感触を知ってしまったら、きっと戦など集中出来なくなってしまいますから」


…ずるい。離れてしまうのに、放してくれない。
あなたとの距離は遠くなるのに、私の心はあなたに奪われたままだ。


「この桜が咲く頃に必ず戻ります。だからその時は、こうしてまた拙者とこの木を見上げてくれますか?」


溢れそうな涙を堪えて、何度も何度も頷いた。どうしていいかわからなくて、何を言えばいいかわからなくて、だからただひたすら首を振った。そんな私にあなたはまた微笑んで、ずっと繋がれていた私の左手を取り顔を近づけると、そっと唇を落とした。「行ってきます。」そう私の耳元で呟くと、彼は一度も振り返ることなく白銀の中に消えていった。ぽつんと残された左手に、ひとつ、ひとつ、粉雪が落ちるたび、バジルと過ごした優しい日々が心に浮かんでいく。舞い降りては手の中ですうっと消えていく思い出を見て、私の瞳からはようやく涙が流れた。


「 行ってらっしゃい。 」

いつもあなたを想って待っている。








ひらり、ゆらり、桜の花びらが舞って、私ひとりに冷たく降りそそぐ。
あの大きな桜の木は白からピンクに衣替えして、胸を張って大きく咲き誇っていた。
雪どけ水が太陽の光を浴びてキラキラと光っている。

バジル、春だよ。桜が綺麗だよ。あの時私は、左手にあなたの感触を知ってしまったから、最上級の幸せの心地を知ってしまったから、もう他のことなんて考えられない。あなたなしで幸せは味わえない。バジル、バジル、春だよ。一人で乗り越えた冬よりも、あなたがいない春の方がずっとずっと寒いのは、どうして。




桜の庭で君を待つ
ふたりで手を繋いで、桜の木を見上げて、綺麗だねって、笑い合いたかった。


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