親の都合で何度か転勤を繰り返していた私が、幼い頃住んでいた家に、また帰ってくることになった。久しぶりに訪れたこの町の景色は、やっぱり少し変わっていたけれど、私を包み込んでくれる懐かしい空気がそこにはあって、あたたかい雰囲気はあの頃のままで、なんだか安心した。ああ、だけど、いつも通っていた近所の駄菓子屋さんはなくなってしまったみたい。あそこのおじいさんの優しい笑顔と、いつも買っていたプリン味のチョコレート、大好きだったのに。それは、とても残念。




久しぶりの我が家は居心地がよく、新しい学校―西浦高校もとてもいい学校で、少し変わった時期に転校してきた私を、みんな優しく迎え入れてくれた。新しい生活に特に不満はなかった。恵まれた環境で、楽しい毎日を送れていた。ただ、気になることが、ひとつだけ。


「ねえ、って小さい時はこの辺りに住んでたんでしょ?」
「うん。えーっと、小1のときまでかなぁ」
「じゃあさ、この学校に知り合いとかいないの?」

――気になる人が、ひとりだけ。


泉孝介くん。私の家のとなりのとなりに住んでいて、いつも一緒に遊んでいた、笑顔の眩しい男の子。ここで過ごした毎日に思いを馳せれば、必ずどこかに彼の姿があった。孝介くんがまた私のご近所さんになって、偶然にも高校も同じで。だけど彼は、今所属している野球部の練習がとてもハードなようで、朝は早く帰りは遅く、クラスも一組と九組、と遠かったから、実は私はまだ彼に会えてはいなかった。


(孝介くん、どんなふうになってるんだろう)


これまでも孝介くんが幼馴染だという話を友達にしたことは何度かあった。そしてそのたびみんなに「いいなあ!」「ずるい!」と羨望の目を向けられた。どうやら孝介くんはなかなかかっこいい男の子に成長したみたいで、女の子からも結構人気があるらしい。「でも泉くんって女の子からの告白とか、全部断っちゃうんだよね」「そこがまたいいよねー!」そう言ってみんなに騒がれている孝介くんは、なんだか遠い人のようで、少しだけ寂しかった。孝介くんは、私のこと、覚えていてくれているのだろうか。




次は理科総合の授業で実験だった。化学室は一組の教室から少し離れたところにある。移動面倒だねー、なんてみんなで愚痴をこぼしながら、のんびりと階段をあがっていた。そういえば校舎のこっちのほうに来るのは初めてだ。早く校内全部まわって、覚えないとなあ。そんなことを思っていると、どこからかにぎやかな声が耳に届き始めて、私はふいに視線をあげる。そして、その輪の中にいた彼に、吸い寄せられるように、目が、留まった。

変わらない笑顔。だけど少し大人びたその姿に、私の胸がどくんと鳴る。
一目見ただけで、すぐにわかった。


(…こうすけ、くん?)


教科書を抱えていた腕に、ぎゅっと力がこもる。脈がはやい。からだが熱い。私、どうしちゃったんだろう。

目を離せないでいる私に彼も気が付いたのか、ふっと、視線が繋がった。ひときわ大きく胸が鳴って、ぐっと息がつまる。彼もまた、私を見ていた。結ばれた視線の糸は固く、もうほどくことは許されないとでもいうように、じっと二人で見つめ合っていた。世界中の時計が進むことをやめてしまったみたい。いや、時計だけじゃない、世界中で動いている全てのものが、ぴたりと止まってしまったみたい。私と、孝介くん、ふたりだけの空間が、そこにあるような気がした。

だけどそれはぜんぶ、私がひとりで感じていただけのもので。時計はぐるぐるまわって時を刻んでいたし、世界中の全てのものはずっと動き続けていて、私たちのあいだの糸は、簡単にするりとほどかれた。孝介くんが、すっと、私から目を逸らした。それは決して自然に起こったものではなかった。私という存在を、自分の視界から消し去ろうとする、はっきりとした動きだった。その瞬間、私も夢からさめるように現実に引き戻される。孝介くんは何事もなかったかのように友達との会話を再開させて、私の横を通り過ぎていった。

声をかけてもらいたかったとか、そういうわけじゃない。孝介くんが私のことをわかってくれる、いや、私のことを覚えてくれている保障だってない。何かを期待していたわけじゃないのに、それなのに、どうして。ずきずきとした胸の痛みが私を苦しませるのは、どうして。




それから授業の合間や夜寝る前、ひとりでぼーっとしているときに、ふとそのことを思い出しては落ち込んだ。それは、ひとりぼっちで学校から帰っている今もまた同じだった。少し慣れ始めた通学路をとぼとぼ歩きながら、私はまた孝介くんのことばかり考える。昔ここを離れる時、私は「孝介くんとばいばいしたくない」ってわんわん泣いた。そしてここに戻ることが決まった時、「また孝介くんに会えるかな」って胸を躍らせた。ここにいる私の全てが孝介くんに向かっているのに、この思いは報われないのかな。もう、仲良くなれないのかな。


「…あ……」


気が付けば声が漏れていた。丁度曲がり角にさしかかったとき、少し向こう側に、思い描いていた人の姿があったから。孝介くんもすぐに私に気付き、あの時と同じように目が合って、時が止まる。ドクンドクンと心臓が早鐘を打つ。動き出さないで。ほどかないで。目を、逸らしてしまわないで。


「……こっ孝介くん!」


とっさに名前を呼んだ。そしてその瞬間、頬にポツリと何かが当たる。
それが何なのかを考える暇もなく、空から落ち始めた大粒の雫は力強く私たちに降り注いだ。タイミング、悪すぎる。何で今に限って降ってくるかなぁ。私の気持ちなんかおかまいなしに、雨はどんどん勢いを増していく。空を見上げて立ちすくむ私の手が、ぐいっと、強い力で引かれた。


「走るぞ」
「えっ?わっ…」


気が付くと孝介くんがすぐそばまで来ていて、私の手を取った彼は雨の中を走り出した。突然のことに、何が起こっているのかうまく理解できない。ただ、私の意識は、握られた右手に集中していた。手なんか、昔何度もつないだのに。だけど、私を丸ごと包み込んでしまうこの大きな手を、私は知らない。目の前にある広い背中を、私は知らない。あの頃とは違う孝介くんが、私をどうしよもなくドキドキさせる。




どのくらい走ったのだろう。私たちは貸店舗と書かれた小さな建物の屋根の下で雨を凌ぐことにした。ひどく心臓がうるさいのは、きっと、たくさん走って疲れたせいだけじゃない。孝介くんはカバンからタオルを取り出すと、「ほら」と私の頭にかぶせて、二、三回くしゃくしゃっと私の髪を拭いた。


「ありがとう…」
「夕立だし、すぐやむだろ」


やわらかいタオル感触と、乱暴なようで優しい孝介くんの手。懐かしい、変わらない、孝介くんの家のにおいが鼻をくすぐって、また、胸がドキンと鳴る。雨、やまないでほしい。そうすればもう少しこのままでいられるのに。そんなことを思ってしまった自分が無性に恥ずかしくて、孝介くんから顔を逸らし、きょろきょろと不自然に視線を泳がせる。……あれ?ここ、なんだか見覚えがあるような。


「ねえ、孝介くん」
「…ん?」
「ここって昔駄菓子屋さんだったよね?」


そうだ。辿りついたときは余裕がなくて気が付かなかったけれど、そこに広がる景色は小さい頃何度も見たものと同じ。もうお店はなくなって、その手にはお気に入り小銭入れもおいしいお菓子もないけれど、こうしてまた孝介くんと一緒にこの場所に立っているなんて、なんだかちょっと、嬉しいかも。私は優しい気持ちに包まれて、自然と頬がゆるんでいくのがわかった。


「よく一緒に来たよね。なつかしいなあ」


なくなっちゃったんだね、帰ってきてびっくりしたよ。すごくショックだなあ。おじいちゃん、また会いたかったのにな。思い出したら懐かしくなって、私はひとりでぺらぺらと喋る。だけど隣の孝介くんは何も言わなくて、無表情のままこっちを見ているだけで、私ははっとした。私、何ひとりで盛り上がってるんだろう。


「あっでも、孝介くんは、そんなこと、もう覚えてないかもしれないけど」

「私のことなんか、忘れちゃったのかもしれないけど」


そうして次に出た言葉は嫌味っぽい、かわいくないものばかりで。今、私、ものすごく感じ悪い。違うのに。こんなことが言いたいわけじゃないのに。


「えと、でも、その」


ただ、ただ、わたしは。


「…私は、すごく、会いたかったんだけど」


口に出してから一気に恥ずかしさがこみ上げる。確かにその通りなんだけど、全然間違いではないんだけど、なんか、すごいこと言っちゃった気がする。ますます孝介くんの顔を見られなくなって、どこか孝介くんの目の届かないところに逃げ出したくて、だけどそれは叶わないから持っていたタオルに隠してもらおうと思った。でも、それも叶わなかった。そうする前に私のからだは引き寄せられて、たくましくなった孝介くんの腕に、抱きしめられていたから。確かに孝介くんの顔は見えなくなったけれど、これじゃあちっとも落ち着かない。


「……おまえ、それ、反則」
「えっ?なに…」
「覚えてないわけねェだろ。いつも俺の隣で、プリンのチョコ、うまそうに食ってた」


胸の高鳴りが激しさを増す。そして耳元に感じる、同じくらい激しい、孝介くんの音。


「…つか、俺は一日だってのこと忘れたことなんかなかったんだけど」


「孝介、くん」小さな声で名前を呼んで、そっと上を向いた。孝介くんの顔が驚くほど近くにあって、今までよりもずっとドキドキして恥ずかしい。だけど、目を、逸らしたくなかった。


「…だから、その顔、反則」


もう一度呼ぼうとした名前は、ぐっと近づいた孝介くんの唇によって喉の奥へと押し戻された。触れ合うふたつの赤。また、私の知らない孝介くんが、私の心を乱していく。初めて感じたその温もりは、あのプリン味のチョコのみたいに私に甘い幸せを運ぶ。…こんなの、孝介くんのほうが反則だよ。その視線が、手が、腕が、言葉が、唇が、私を掴んで放さない。遠くで雨音を聞きながら、ああ、きっとこれからも私の全ては孝介くんに向かっていくんだろうなあと、うまく働かない頭でぼんやりと思った。







レ イ ニ ー ・ ク ラ シ ッ ク

( 会いたかった。ずっとずっと好きだった。目を合わせたら思いが溢れて、抑えられなくなりそうだった。 )

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